
生きる理由を失いやすい年齢
人は「なんのために生きているのか」という理由が見えなくなると、途端に生きづらくなる。若い頃は、理由がなくても勢いと体力で前に進めた。失敗してもやり直せる時間があり、多少の無茶も許された。
しかし50歳を超え、独身という状態で日々を過ごしていると、生きる理由は少しずつ輪郭を失っていく。結婚して子供がいれば、また違った世界が見えるのだろうと思うこともある。良い悪いではなく、ただ「違う」のだ。
理由を探し続けないと壊れてしまう
馬鹿だと言われるかもしれないが、50歳を超えても生きる理由を追いかけ続けないと、人は簡単に壊れてしまう。無敵の人になってしまう気持ちも、自ら命を断ちたくなる感覚も、正直なところ理解できてしまう。
これから先、そういう人は確実に増えていく。社会の構造がそういう方向に人を追い込んでいるからだ。
若さと中高年の決定的な違い
若い人には時間がある。エネルギーもある。失敗しても、方向転換しても、まだ先が長い。だから挑戦できる。
一方で中高年になると、残り時間は目に見えて減り、体力も気力も若い頃のようにはいかない。頭では「まだやれる」と思っていても、現実はなかなかついてこない。そのギャップが、心を静かに削っていく。
働くために生かされている社会
今の日本は、「生きるために働く」社会ではなく、「働かせるために生かされている」社会に近づいている。この現実を真正面から受け止めてしまうと、人は簡単に鬱になる。
意味の見えない労働、終わりの見えない消耗。その中で「これが人生だ」と思い込んでしまった瞬間、心は折れてしまう。
意識を切り替えるしかない
だからこそ、この現実をストレートに受け止めすぎないことが大事だと思う。社会のためではなく、会社のためでもなく、「自分なりの働く目的」を無理やりにでも作る。
生活費のためでもいいし、自由時間を確保するためでもいい。誰にも評価されなくてもいい。自分が納得できる理由を持てるかどうかで、同じ仕事でも気持ちは大きく変わる。
鬱々とした日々の正体
毎日仕事が辛く、気分が沈み続けるとき。それは能力や根性の問題ではなく、「生きる目的」が一時的に見えなくなっているだけなのかもしれない。
目的は壮大である必要はない。小さくて、個人的で、誰にも理解されなくてもいい。ただ、自分が今日を生きる理由として機能するものであれば、それで十分だ。
生きる理由は完成しなくていい
生きる理由は、見つけたら終わりではない。何度でも壊れて、何度でも探し直すものだ。50歳を過ぎても、それは変わらない。
追いかけ続けること自体が、生きている証拠なのだと思う。


